人間誰しも偽善な面がある世界において、偽善者という言葉はただの悪口である

人間誰しも偽善な面がある世界において、偽善者という言葉はただの悪口である

突然だが、偽善者という言葉が嫌いだ。

なぜならば、人はすべからく「偽善」の一面を持っており、完璧な「善人」等いない世界において、「偽善者」などと言う人は、その人の持っている「偽善」の一部分を指摘して悦に浸っているだけだからである。単なる悪口と変わらない。

では人はどのように偽善なのか?簡潔に言ってしまえば、生きているだけで偽善である。人が生活しているうえでほとんどの人は動物を食べている。世界では場所にもよるが、豚も、鶏も、牛も、苦しみながら毎日殺されている。その肉を当たり前のように食べている我々が、善である理由などないが、そもそも動物とはそういうものであるともいえる。

そもそもこの世界では動物のみならず、人間も犠牲になっている。よく、途上国の人々を搾取して先進国の人々は生活しているといわれるが、それは先人たちが数百万年の歴史の中で築いてきた格差や理不尽を「資本主義社会」という名の下に平等を装って維持したものが現在の社会であることに起因する。個々人の能力や努力で覆せるといってもその能力をいかんなく発揮するためには間違いなく一定の環境が必要であり、その環境は生まれついた場所により大いに左右されている。

頑張っている人よりも頑張っていない人の方が良い思いをしていることが多いのが今の世界であり、重労働は「きついが、できる人が多い」故に低賃金であることが多く、頭を使う仕事は「楽だが、できる人が少ない」故に高賃金であることが多い。なので「自分より明らかにきつそうな仕事をしている人」の多くが自分より稼いでいないことに気づくし、逆に言えば自分よりお金を稼いでいる人は自分より楽そうに見えることが多いしおそらくその通りなのである。

肉体的、精神的に「頑張っている人」よりも「頭を使っている人」の方が報われる世界であり、それは頑張るかどうかよりも「環境を獲得する」ことの方が生活や所得を向上させるためには重要だからである。「環境を獲得する」にはもちろん努力も時には必要だが、それよりも新たな環境を模索する余裕と機会が必要であり、それすらも現在の環境に依存するのである。

そんな、理不尽だらけの世界をさも「お金の下には平等」に見せかけた今の世界が真の「善」に満ち溢れているわけもなく、我々はたとえそれが「偽」であったとしても、我々自身の暮らしている小さい社会の中の小さな「善」を積み重ねていくことで生活している。そんな、「世界で人が苦しんでいても私の家族だけは幸せでいてほしい」と思ってしまうような、偽善だけど憎めない存在が、我々人間なのだと思う。

 

 

P.S.

私はときたま、頭がさえて夜中寝れなくなることがある。こんな記事を書いているのは、まさに眠れず、考えていたことを書き留めておかなければという気持ちに駆られたからにならない。

偽善者という言葉に対して嫌悪感を抱いているのは、きっと誰にでも刺さる「偽善者」という言葉をあたかも自分はそうではないかのように投げかける姿勢に対しての違和感をはじめとして、あまりにも当たり前なことを「人を傷つける目的で使う」ことに対しての嫌悪感からでもあり、そもそも存在しない「無垢な善」を肯定して「それ以外の善」をまるで悪のようにとらえる姿勢に対する反感からである。つまり偽善者という言葉は、自分はいい子ぶって人を否定しようとするときにしか使えない言葉なのである。

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