動物の命の重さについて

動物の命の重さについて

 

今からお読みいただく文章は、あまり心地の良いものではないかもしれません。

僕はたまに、誰かに成り代わったような文章を書くことがあります。

自分でも、どこまで自分の意志が入っているのか良く分かっていませんが、僕が書いたことは確かです。

 

 

 

動物の命について

 

ヒトは、残虐な生物である。歴史上最も多くの生物種を絶命に追いやり、今なお数多くの家畜をモノのように扱い、ヒヨコをシュレッダーにかけ、売れないペットを殺している。そこでは家畜もペットも商品として扱われ、不良品は廃棄される。

 

一つ、みんなに考えてほしい事例がある。何のことはない。とある途上国の農村にあなたが訪れたとする。村人はあなたを歓迎し、せっかくだから「豚」を一匹殺して、みんなで食べようと言っている。村では豚は貴重な存在であり、特別な祝い事があるときのみ食べる。さぁ、村人は小屋へ行き豚を引っ張ってきた。豚は身の危険を察したのか、キィー――――――――――――――――――――――――――――と断末魔の叫びをあげながら抵抗する。さぁあなたはどうするか?ここで、豚を殺すのを止めさせて、歓迎ムードの村人を興ざめさせることもできなくはない。だが、それを選ぶ人は少ないだろう。やがて、豚はその喉笛にナイフを突き刺され、キィー―――――――――――――と再び悲鳴を上げたかと思うと、その声は次第に細くなっていき、目はうつろになり、たまにぴくっと動くものの、次第にその生命は終わりを告げる。村人はそれを見届けると、熱く沸かしたお湯を持ってきて、それを豚にかけ、豚の毛をナイフで削るように剃り始める。男二人がかりで剃り終えると、今度は豚の後ろ足をひもで結んで木につるし、お腹を切開する。するとドバっと出てくる内臓を村人は手際よく袋に移し、お腹に水をかけて血を洗っていく。次に村人は豚の頭を切り落とすと、体を縦に切り、それぞれのパーツを木に吊るしていく。頭と、体半分ずつの三パーツだ。そうしてしばらく血を抜くと、村人は豚を木から降ろし、水で洗いながらさらに解体していく。そして村人はその肉を使って夕食を作り、夕食時には上機嫌で「どうだ?おいしいか?」と満足そうにあなたに質問する。あなたは「おいしい」と答え、みんなが満足していることに満足する。

さぁ、この事例で一体何が起ったか、もう一度見てみよう。人びと(村人とあなた)は、一匹の豚を殺し、食べることで喜びを分かち合った。

では次に、豊作の祈願に娘一人を生贄にささげた村の事例についても考えてみよう。この村では、一人の娘を生贄にささげたことで、これから訪れる豊作を思い人々は喜び、そして祝った。

 

さて、どっちが悪い?

 

 

 

 

 

「娘を殺す方が悪いに決まっている」と言いたくなるだろう。

「豚を殺したのは食べるためだが、娘を殺す必要はなかったはずだ。」と主張したくなるかもしれない。しかし彼らにとって、娘の生贄は豊作の祈願でもあった。これもまた、食べるためだ。

「娘の方が感じた痛みが強かったはずだ」という主張もあるだろう。では、最後の最後まで全力で生きたいともがき抵抗したのはどちらであっただろうか。

 

そろそろ気分を害しそうな人もいるだろう。この議論は一旦ここで終わりにする。

正直に述べると、この「どっちが悪い?」という質問は答えを持たない性質の問いであるし、そもそも「悪い」の定義が曖昧であるため的を得ていないかもしれない。

ただ一つ考えてほしかったのは、人間の命が動物の命に勝るという簡単な理由など実は存在しないかもしれないということだ。

 

もう一度、最初の文章をお読みいただきたい。

 

ヒトは、残虐な生物である。歴史上最も多くの生物種を絶命に追いやり、今なお数多くの家畜をモノのように扱い、ヒヨコをシュレッダーにかけ、売れないペットを殺している。そこでは家畜もペットも商品として扱われ、不良品は廃棄される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、誰も幸せにしない文章であるかもしれない。

 

 

ただ僕は、僕の目の前で殺されたあの一匹の勇敢な豚に対し、

哀悼の意を示すとともに、感謝を申し上げたい。