国際協力において「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」という言説が傲慢に聞こえるのは僕だけか?

国際協力において「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」という言説が傲慢に聞こえるのは僕だけか?

 

「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」

 

国際協力の勉強をしていると、必ずと言っていいほど一度は耳にする言葉がある。

 

それが、「魚を与えるのではなく(魚の)釣り方を教えよ」というものである。

 

調べてみるとこの言葉は老子が言ったものらしく、教育界でも良く使われる言葉のようだ。

以下に参考になりそうな記事を載せる

魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ!から考える教育論

 

「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」とはどういうことか?

 

上記の記事でも書いてあるが、直接は

「飢えている人に魚を与えても一日で食べてなくなってしまうが、魚の釣り方を教えればその人は一生食べていくことができる」

という意味であり、ただ物資を与えるだけで一時的な支援にしてしまってはほとんど意味はなく、技術を伝えることで人々が自立できるようにすることの大切さを述べている。

 

これ自体は別にいい。技術を伝えるのは大切である。

ただ、この言葉は、あたかもそれが簡単であるかのような印象を与えている気がする。

 

そこに僕は、傲慢さを感じた。

 

そもそも外から来た僕らが、全く異なる文化と言語を持つ人々に、その社会の背景も理解しないまま魚の釣り方なんてね、教えらんわ!(笑)と僕は実際に現地を訪れて感じた。

 

むしろその社会での生き方で言えば、現地に住んでいる人々の方が完全に格上なのである。

 

そして僕みたいな特に専門性のない人が海外に行くときは、社会の背景や文化や言語をある程度理解したとしても魚の釣り方なんて教えられないことがほとんどである。

 

ましてや、一か月やそこらの滞在で教えてやる!と思うよりは、まずは色々教えてもらいに行こう。くらいの感じで行って、もし何か気づいたら、ここはこうしたらどうなるの?と言う風に聞いてみるくらいがいいんじゃないだろうか。

 

僕が思うに、魚の釣り方を教えてあげられている事業なんて本当に少ない。

しかも、相当お金をかけていてもである。

 

アフリカ・ケニアの村で僕がボランティアしていたときは、農村住民が各家庭で生計を立てられるように、有機農業の種に一万円以上寄付した記憶があるが、先日、その村にとうとうバッタがやってきた。という報告が入った。台無しである。ほんと、くそくらえだ。

 

僕の大学の恩師も様々な収入向上プログラムを手掛けているが、参加者全体の10%でも定期的な収入が向上すればいい方だと述べていた。

 

つまり、お金を持っていかなくても僕らの知識で彼らを成功に導こうなんてのは、最難関レベルと思っていい。

 

そ、つまりそんな感じなのである。

 

結論

「魚をあげるより釣り方を教えよ」などと言われているが、

正直釣り方を教えるなんてのは相当むずいし、教えられて当然などと思ったら傲慢甚だしい。

 

そもそもこちらは彼らの釣り場のことすら知らないからである。

まずは釣り場を教えてもらおう。

 

てか、お金をかけた所で10%で良いとこならば、もはやさっさと魚を配ってしまった方が良いのではないだろうか。とすら僕は思う。

 

魚を配ってもらうことで感じる「喜び」とかいうのも、意外と大切だったりする。

 

正直僕は、ホームレスや物乞いにお金や食べ物をあげるのが実は一番費用対効果が高いのではとすら感じている。一周周って。

 

だって、みんなが物乞いにお金をあげるようになったら、それはそれで社会はまわる。物乞いも助かる。

ラオスの仏教のように。(仏教徒が喜捨をもらって、その残りを物乞いが食べていたりする)

 

そっちの方が優しい。

 

唯一、人々に物乞いをさせて儲けているようなクソみたいな組織や、赤ちゃんを物乞いのために貸し出しているようなビジネスは即つぶれてほしいものだが(詳しくは、「レンタルチャイルド」とかの本に載ってる。あと、コロンビアでも行われているのをこないだ小耳にはさんだりした。)

 

というわけで、そんな感じである。