最高に感謝され、最後は少し悲しい思いをしたコロンビア滞在だった
- 2020.03.20
- Satoshi377 コロンビア 海外経験

僕は明日、コロンビアからメキシコへ飛ぶ。正直もう日本に帰りたいが、数日前の何も知らなかった僕はメキシコに四日ほど滞在する航空便を予約していた。
航空券を買ったのはたったの三日前のことである。その三日間で、いったい何が変わったのか。
1.ボランティアをしていた
ちょうど四日ほど前まで、僕はコロンビアのパンプローナという町でベネズエラ難民に対するボランティアをしていた。各難民キャンプのスタッフに挨拶をして、ブカラマンガという町へ向かったのが四日前のことであった。
ボランティアの内容は、ベネズエラから徒歩でコロンビアに入ってきた難民の支援である。難民支援では、食べ物を配ったり、子どもたちと遊んだり、疲れている人々のマッサージをしたり、ときには徒歩難民を車で運んだり、バスに乗るお金を配ったりもしていた。
その度に人々はとてもうれしそうな顔をして、Dios te bendiga! (神よりあなたに幸あれ)と言ってくれた。いったい何度言われたことだったか。僕はこのとき、一番面白い遊びを見つけたと感じた。人道支援こそが、今後僕がしていくことだと思った。
かれこれ3週間ほどボランティアをしていく中で、僕はかなり多くのベネズエラ人とお話をさせてもらった。人びとはとても気さくで、ベネズエラは本当はとてもきれいな場所だ!というのをことあるごとに耳にして、彼らのベネズエラに対する誇りを感じた。また、意外と宗教熱心なところがあって、何度かキリスト教の勧誘も受けた(笑)
一度はベネズエラ行きも真剣に検討した。なぜならば、ちょうど僕はベネズエラとの国境に近い場所にいたし、ボランティアをして行く中で当然、彼らが来た故郷はどんな場所だったのか、見てみたいと興味がわいたからである。
しかし、ベネズエラ行きを予定していた三日前、事態は急変した。ベネズエラでコロナウイルスの感染が確認されたことをきっかけに、コロンビア大統領が翌日からのベネズエラとの国境封鎖を宣言したのである。
このいきなりの事態に僕は、ボランティア仲間と共に実際に国境を見に行くことにした。国境封鎖初日のことであった。
2.ベネズエラ国境で見た光景
着くと、なんと国境から2kmほどの地点において既に車の出入りが制限されており、私たちは徒歩で国境まで歩いていくことになった。行き交う人の多さに驚いた印象がある。
そうして国境までたどり着くと、そこでは多くの人々がベネズエラに入国するためのゲートの開放を待っていた。コロンビア大統領は国境封鎖と言ったものの、実際にはベネズエラからコロンビアを完全に封鎖し、コロンビアからベネズエラは数時間ごとに開けるという処置を行っていた。
しかし実際に現場で目の当たりにすると、この処置は上手く機能していなかった。なぜならば、ベネズエラからコロンビアに来たい人々は裏道を利用し違法にコロンビアに入国しており、コロンビアからベネズエラに入りたい人々も裏道を利用できたからである。しかしもちろん、ベネズエラ入国のゲートの開放を待っている人々も多くおり、人々は待ちきれずにゲートを押し破って突入するという事態も目の当たりにした。衝撃的な光景であった。あれだけの人数を一度にチェックするほどの機能は両国とも持っていないように見受けられたため、明らかに、国境は常時開放しておくべきだった。
ちなみにここの往来はほとんどすべてがベネズエラ人によるものであった。コロンビア人にはベネズエラに入る理由は基本的にないが、ベネズエラ人は高騰化した食料などの製品を自国で買うのが厳しいため、一度コロンビアに入国して買い物をし、ベネズエラに戻って家で過ごすということを常に行っていたからである。また、コロンビアに入国して働き、ベネズエラで寝泊まりしている人もいた。
と、ここまでを実際に国境で目の当たりにした僕は、人生で久しぶりに、ベネズエラに入るかどうかを真剣に悩んだ。なぜならば、ベネズエラに入国すること自体は出来そうだったからである。また、危険度に関しても、僕が死に至るというほどの危険は感じられなかった。ではなぜ結果的に入らないことにしたのかと言うと、まだ述べてない第三の要素が存在した。
3.ベネズエラ国境で感じたウイルスと中国への怒り
実は僕は、人々の憤りや国境の強行突破以外にも、日本人である故に体験したことがあった。それが、自身を「コロナウイルス」かのように見られるということであった。
国境が封鎖されたのは、そもそもコロナウイルスが原因であった。(厳密には封鎖したコロンビアの方が先にコロナウイルスが発見されていたため、ベネズエラが先に封鎖を行っていたのだが、全く機能していなかった模様)
そのため、コロナウイルス、強いては中国人に対する怒りのようなものがそこには確かに存在していた。そして中国人に対する偏見は、そのまま日本人にも適用された。見ての通り、彼らからすると我々は見分けがつかないからである。(私たちから見てもベネズエラ人とコロンビア人が見分けがつかないように)
そのため僕は、国境開放を待っている人々に、中国人!コロナウイルス!と叫ばれたり、人々に、「コロナウイルスは中国で人が増えすぎたから発症したんだろ?日本人も覚えておくべきだ」などと訳の分からないデマをさも「お前にも責任があるんだ」とでもいうかのような論調でけしかけられ、軽くキレて反論したりもした。(結果黙ってはもらえたが、納得はしていないようであった。)
まぁ、簡単に言うと、とても居心地が悪かったのである。そして、悲しくもあった。なぜなら彼らは、僕が今まで支援してきた人々の同胞であり、Dios(神)はBendiga(祝福)してくれなかったんだなと感じた。まぁDiosは信じてないけども。
また、難民支援のボランティアをしている際にそういった経験はなかったのかと言うと、ほとんどなかったのである。それに関しては僕自身も感じており、やはり同じような境遇(ベネズエラを出てコロンビアに来ざるを得ず、コロンビア内ではたまに良く無い目で見られている)であるベネズエラの人々は、こちらの気持ちもわかってくれるのだろうか、などと感じていたが、ちょっと内情は異なっていたようだ。
ともかく僕は、そういった理由で、今回はベネズエラに入国することを辞めた。そういった理由と言うのは、つまり居心地が悪かったのと、あとは一緒に入国しようと話していたベネズエラ人や、現地で受け入れてくれそうだった人々に迷惑をかけるのも嫌だったからである。彼らに迷惑がかかるであろうことは、今回の経験から容易に想像できてしまった。
と言うわけで、ベネズエラに入らないのなら、コロンビアを少し回ってから日本に帰ろうと決断したのが今から5日前で、冒頭にも述べたようにその翌日には僕は難民キャンプにお別れを言ってパンプローナを旅立ち、ブカラマンガという町へ向かったのである。
そして三日前、僕はそろそろ予定を決定しようと思い、一番安く、それでいていい感じに日本での飲み会に間に合う日程で日本行きのチケットを購入したのである(笑)
4.居づらくなってしまったコロンビア
そして一昨日のことである。国境のみでなく、あらゆる場所でアジア人を見る目が異なってきている、と気づいたのは。それはハルディンという町のホテルに到着したときのことであった。
予約していたにもかかわらず、僕は宿の入り口でパスポートを見せるように聞かれた。路上にいて、宿に入りもしていないうちにである。僕が二月の中旬だと答えると、にっこりして宿に通してくれた。
「コロンビア入国から2週間以上経過していない人は宿泊させることが出来ないという、保険省の通達が来たの」
驚くべきことに、もうここにも手が回っていた。
それどころか、耳を澄ませると、日本の消防車の放送のような形で「コロナウイルスの注意点」に関する放送が町中に流れていた。
一日の観光を通して、ハルディンという町はコロナウイルスの注意喚起により以前よりも様々なアトラクションなどが制限されているということに気が付いた。
そして、昨日ハルディンからメデジンへ移動した際には、バスのチケットを買うにもパスポートの提示が求められた。どんどん取り締まりが進んできているのが、実際に感じられた。
そうして今日、僕はメデジンという町を一日観光していく中で、一刻も早く日本に帰りたいという気持ちが強まった。
別にコロンビアの人々が悪いとか、そういうことではない。ただ単に、僕はここにいるべきではないと感じただけのことである。
まぁ一人、街中で歩いている俺を見て「Taxi!」と叫んだかと思ったら「コロナウイルス!」と大声で呼んできたくそ野郎はいたがそいつは僕の世界からは消えた(ことにした)
そうではなくて、例えば駅に行くとしよう。駅員さんはマスクをして、さらに窓口の近くには消毒ジェルも置いてある。人びとのなんと4割近くはマスクもしている。
この中に、コロナウイルス発症国の人(と見分けがつかない人)がいきなり入り込んだらどうなるか。ちょっと緊張するだろう。
電車ならまあそんなに混んでないからいいとする。
でもケーブルカーなら?
ケーブルカーは6人乗りで、僕と一緒になった人は密閉空間に近い状態(風通しはあるが)で十数分間も一緒に過ごさなければいけなくなる。当然、ウイルスが移ったら嫌だと心配するだろう。
僕自身は、コロンビアに1か月前から入国していたし、ウイルスが確認された場所には一度も立ち寄ってないことから、基本的には感染している可能性はそんなには高くない(コロンビアの人々とあまり変わらない)と思っているのだが、まぁそんなのはこっちの事情であり、向こうからすれば僕は恐怖の対象となりかねない。
昔は僕が怖がっていたコロンビアも、今では僕を怖がるようになってしまったのだ。
と言うわけで、僕はたかだか乗り物に乗るだけでも、ショッピングに行くだけでも、ホテルに泊まるだけでも、疎まれかねない存在になってしまったのである。特に、今泊まっているホテルの受付の人の僕を見た時の反応と言ったら、サービス精神の180°真逆を全力で突き抜けたみたいに嫌そうな顔をしていた。
悲しいことである。僕は、もしかしたらユダヤ人もこんな感じだったのか、と考えたりした。人びとから疎まれ、さらに彼らの場合は帰る故郷すらもなかったのである。発狂もんである。
というわけで、今僕が望むのは、無事日本に帰れること、それだけである。
26日に帰国予定なので、上手く帰れたら報告する。
では
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